桜の下で、手をつなぐ
「わあぁ、すっげぇー……!」
満開の桜の下で、ハウは息を飲んだ。見渡す限りの空が淡いピンク色に染まり、ちらちらと舞う花びらは光をまとった羽毛のようだ。
凍てつく冷風もすっかりぬるくなったうららかな季節。ハウはカイと一緒にホウエン地方を訪れていた。ちょうど近くに桜の名所があるというので、ポケモンたちもボールから出し、みんなで花見に来たというわけだ。
「めっちゃきれいだなー。これ本当にぜんぶ本物の花なのー? 枯れ木みたいなのに。」
常夏アローラの植物は、青々しげる葉と共に鮮やかな色彩の花を咲かせるものが多いから、桜の花が作り物に見えたのも無理はないだろう。全部本物だよ、とカイは笑った。
「そういうものなんだよ。花が終わった後に、葉っぱが出てくる。」
「へえー。誰かが枯れた木に花をくっつけたのかと思った。」
「これだけの量をくっつけるとなると、かなり大変だねえ。ポケモンたちにもたくさん手伝ってもらわないと。」
「おー。それならやっぱりスバメとかキャモメとか、翼のある小さなポケモンかなー。」
「ケムッソもいいかも。糸でしっかりくっつけてくれそう。」
ハウとカイが冗談混じりにおしゃべりしながら笑ったところで、びゅうっと強い春風が吹き抜けた。桜の花びらがハウたちの側をかすめて通り過ぎる。まるで風が桜色のドレスをまとって遊んでいるようだと、ハウは思った。
ハウの肩に乗っていたジグザグマが、するりと地面に降りて駆けだした。舞い踊る桜と競走したいのかもしれない。アチャモもジグザグマに付いて走りだす。
「あっ、待ってよー!」
ハウはカイとつないだ手を離し、2体を追いかけた。
頭上ではチルットが楽しそうにハミングしながら飛んでいる。桜にけぶる空に、青い体色はよく映えた。チルットの伸びやかな歌声と、尽きることを知らないピンクの花びらが降る、降る、降る。
ハウがくるりとその場で回転すれば、全方位に舞う桜が一度に目に入った。ジグザグマもハウを真似してくるり。さらにアチャモもくるくるくるり。アチャモの細っこい足がせわしく動くのを見て、今にも転びそうだとハウはハラハラした。わあこけそう。もうこけそう。ほらこけた。
「大丈夫ー?」
ハウがアチャモを助け起こし、ジグザグマが寄ってきた。チルットも側に着地して心配そうに首を傾げた。当のアチャモはというと、ぷるぷるっと頭を振った後、高くひと鳴き。すぐにまた飛びだして走り始めた。どうやら全く問題ないようだ。
「転ばないように気を付けてねー。」
ハウの声を背中に受け、アチャモは跳ねながら返事をした。ジグザグマがそれを追ってじぐざぐに駆け、チルットは桜を間近で観賞できる空の散歩道へ再び昇っていった。
本当に元気なポケモンたちだ。彼らを見守り、心がほっこり温まるのを感じながら、ハウはカイを振り返った。
「みんなお花見すっごく気に入ってくれたみたいだなー。良かったね、カイー。」
言い終えた瞬間、ハウは続く言葉を失った。
視線の先、いつもハウやポケモンたちを優しく見つめてくれているはずのカイの瞳が、今はただ満開の桜だけを映していた。降りしきる花びらがカイの髪にかかり、彼女の長い黒髪は瞳の中と同じ色に染まっていく。髪だけではない。カイのやわらかな肌にも、服にも、カイという存在そのものに、桜の花びらが次々と圧しかかる。淡色の吹雪に包まれて桜を眺めるカイの姿が、魂を吸われるかのように輪郭を失っていく。
カイが、桜になっちゃう。
「カイ!」
ハウは慌ててカイに駆け寄った。
突然の大声に少し驚いた様子で、カイは目をぱちくりさせた。
「どうしたの、ハウさん。」
その瞳にはハウが映っていた。長い髪は黒くつややかになびき、肌にも服にも桜の花びらは乗っていない。いつも通りの微笑みでハウを見つめ、ポチエナを優しく腕に抱いていた。ポチエナは安心しきってリラックスし、ぴすぴすとご機嫌な鼻息を立てている。
「いや……。」
ハウは、胸の奥にひやりと突き刺さった何かを吐き出すように言葉を落とした。そして、なんでもない、とはにかんで再びカイと手をつないだ。
「なんだか、カイが桜になっちゃいそうな気がして。」
突飛なことを言っているとは自覚していた。どうしてそんなことを感じたのか自分でもわからない。それでも、万に一つでも奇怪な直感が当たってしまったらという不安に抗えなくて、ハウはつないだ手にきゅっと力を込めた。
カイもまたハウの指に自身の体温を絡め返した。
「こんなにすごい桜の中にいたら、不思議なことの1つや2つ、起こっちゃいそうだよねえ。」
意外にもカイは、ハウの発言を変とは思わなかったようだ。大丈夫だよ、とカイは続けた。
「私はどこにも行きませんから。ずっとハウさんのお側におります。」
どんな美しい花よりも愛しい、ハウの大好きな笑顔がすぐ隣で咲いていた。
ハウも「うん」とうなずいて、微笑んだ。
そうして2人は満開の桜並木の下をゆく。大切な人とポケモンたちと共に過ごすこの時間が、桜の花のように降り積もる。その花びらの一番小さな一片の、先っぽまでも慈しむように、ハウとカイは互いの手をしっかりと握りしめ、ゆっくりゆっくり歩き続けた。