ハウとネッコアラ
第1話 第2話 第3話
ハウは目の前が真っ暗になった。
エーテルパラダイスでの騒動の後、ハウはカイたちと別れて一人ウラウラ島に戻った。島巡りの続き――達成し終えていない試練をこなすためだった。
アセロラの試練をなんとかクリアし、ウラウラ島のしまキング、クチナシの大試練に挑んだハウだったが。
「まあ……あんちゃんはよく頑張ったよ。」
クチナシはワルビアルをボールに戻しながら、ハウの健闘を称えた。
「ポケモンもあんちゃんのことしっかり信頼してる。強くなりてえんだろ。そういう戦い方だったぜ。」
クチナシが心配そうにこちらをのぞきこんでくれたが、ハウはうつむいたまま、彼の方を見ることができなかった。勝者にどんなに慰めてもらおうと、ひどく一方的な負け方だったことは、敗者が一番よく分かっていた。
「けどな、手段を伴わない理想は身を滅ぼす。……やめときな。」
クチナシは小さなため息をつくと、じゃな、と背を向けて去って行った。ありがとうございました、とようやく絞り出せた声は、届いたかどうか定かではなかった。
力尽きたポケモンが入ったモンスターボールをぎゅっと握りしめ、ハウは、どうすれば、と思った。
どうすれば、強くなれるのだろう。
祖父の元で修行することをすぐに思いついた。けれども同じくらいすぐに、その考えを却下した。じーちゃんと一緒だとおれは甘えちゃうかもしれない。家族ほどには近くない距離で、かつ信頼して指導を仰げる人は。
ふっとイリマの顔が浮かんだ。同じメレメレ島の住人で、ハウの島巡りに最初の試練を与えてくれたキャプテン。
「初めての試練達成、おめでとうございます。」
茂みの洞窟で無事にノーマルZを手にしたハウに、温かな拍手を送るイリマの微笑みを思い出す。
「キミたちの島巡りに幸いがありますように。困ったことがあったらいつでも相談しに来てください。キャプテンとして、きっと力になりますよ。」
ハウは、今こそイリマの言葉に頼る時だと思った。
イリマの部屋は整然としていて、いくつも並んだ棚に本やらDVDやら様々なコレクションやらがぎっしりと収納されていた。壁際に飾られている数個のトロフィーは、どれもぴかぴかに磨かれて金色に光っている。
「どうぞ、自分の部屋だと思ってくつろいでください。」
ローテーブルの上にアイスティの入ったグラスを二つ置いて、イリマはハウに座るよう促した。ハウはまだ少し部屋の中をきょろきょろと見回しながらも、イリマの勧めに従った。
「連絡してくれて嬉しかったですよ。どうですか、島巡りは。」
イリマもハウの向かいに腰を下ろす。
「う、うんー。あの、おれ、クチナシさんに負けちゃって……。」
それ以上は言葉が続かなかった。だが、壁にぶち当たったからこそこうして誰かを頼って来たことは、イリマだって理解してくれているのだろう。彼はハウを急かすことなく、ミルクいりますか、と小さなガラスのピッチャーをハウに差しだした。ハウはありがとうと言って受けとると、それをグラスに注いだ。真っ白に濁った液体が、透明な茶色の中に沈んで、広がる。ストローでぐるぐる混ぜるとあっという間に一つの色に溶け合った。
ちゅ、とハウは少しだけアイスミルクティを飲む。
「クチナシさんに挑戦したということは、アーカラとウラウラのキャプテンたちの試練、それにライチさんの大試練をもこなしたのですね。やるじゃないですか、ハウさん。」
イリマに褒められ、ハウは照れてはにかむ。
「ちょっと危ない時もあったけどねー。でもポケモンたちが助けてくれたんだー。」
「どの試練が印象に残りました?」
「そうだなー。えっとー、カキの試練がねー」
話し始めると、いろいろなことが蘇ってきて止まらなかった。キャプテンたちが課す個性豊かな試練、それをポケモンたちと共に乗り越えた時の達成感。進化を伴ったこともあった。大ピンチに追いこまれ苦い焦りと悔しさが口中いっぱいに満ちたこともあった。すべてがほんの数日前のことのような、遠い昔の思い出のような、不思議な心地がした。
イリマはうんうんとうなずき、時々質問や感想をはさみながらも長い言葉にはせず、ハウの島巡りの様子に耳を傾けてくれていた。
だからライチの大試練の話を経て、再びクチナシの大試練に話題が戻ってきた時も、ハウはさっきよりは滞りなく、情けない敗北戦の内容を口にすることができていた。
イリマは問題となったバトルの流れを一通り聞いた後、
「手段を伴わない理想は身を滅ぼす……ですか。」
去り際のクチナシの言葉を、声に出して反芻した。イリマはキャプテンだから、しまキングのクチナシと会う機会もあるのかもしれない。ハウにそう言ったクチナシの姿を思い浮かべて苦笑しているようだった。ただそれは決して侮蔑や嘲りを含むものではなく、むしろ尊敬と畏れ――しまキング様はとんでもなく重い課題をハウにもハウが助言を求める者にも与えてしまわれたと、責任感に身震いするような笑みだった。
「ハウさん。」
イリマは姿勢を正し、真っ直ぐにハウの目を見て問う。
「強くなりたいですか。」
「強くなりたいです。」
自分でも意外なくらいの即答だった。イリマの試練を受けた頃のハウだったら、こんなふうには答えなかっただろう。きっと、ポケモンたちと楽しく遊んだりバトルしたりしているうちに強くなれたらそれでいいよーなんて、そんな答えを出していたはずだ。
しかし今は、理想があった。それには手段が足りないことを痛感していたし、かといって身を滅ぼすつもりもなかった。その決意が、造作する前にハウの唇を動かした。
メレメレ島を巣立ったばかりの時とは違うハウの力強い語調に驚いたのは、イリマも同じだったらしい。少しだけ目を開いてハウを見つめると、微笑んだ。
「分かりました。今のボクが教えられること、全部キミに伝えましょう。」
イリマはまず、ハウのポケモンをボールから出して見せるよう依頼した。
ハウはうなずき、アシレーヌ、ライチュウ、ブースターが部屋に並んだ。広い部屋とはいえ、さすがに人間が二人とポケモンが三体も並ぶとちょっと狭い。にも関わらずブースターなどは見知らぬ場所に興味津々できょろきょろと辺りを見回し、くんくんにおいを嗅ぎながらイリマのコレクション棚に爪を引っかけようとしたのでハウは慌てて抱き制した。
イリマはそんなブースターとハウを横目に見やりつつ、まずはアシレーヌの色つや、体温、人馴れの具合などを確かめた。モンスターボールも預かって、そこに登録されている情報に目を通す。
ハウはブースターを抱えて、次はライチュウの様子を見ているイリマの姿を見守った。緊張を紛らすために、ブースターのえりまきに埋まった手をそわそわ動かしていると、好奇心を抑えられて退屈な顔をしていたブースターが、きゅうきゅうとくすぐったそうに鳴き始める。返事をする代わりにほおを寄せてやると、ブースターもハウに顔をくっつけ、鼻頭をぺろりとなめた。
そうこうしているうちにブースターの番も来て、イリマによるハウの手持ちポケモンチェックは無事に終了した。
「いいポケモンたちです。」
ポケモンたちをボールに戻した後、イリマはまずそう言った。
「よく育てられているし、けがも病気もない健康体。ストレスの兆候も見られません。ハウさんにどれだけなついているかは、わざわざボクから述べる必要もないでしょう。」
ほっ、と小さな吐息がもれた。だが次の息を吸う間もなく、けれど一つ気になったのは、とイリマの言葉が続いた。
「彼らの技構成です。例えばライチュウのエレキボール。確かにライチュウの素早さを活かすことを考えれば良い技ですが、反面、相手によって威力が安定しないリスクもあります。エレキボールを覚えさせているのには、理由が?」
「ううん……。ピカチュウの時からずっと使ってるから愛着あるし、なんとなく。それに、電気技は他に覚えなかったから。」
「そうですね。石で進化するポケモンの多くは、進化のためにエネルギーを使ってしまうのか、新しい技を覚えなくなります。どんな技を使わせたいかによって進化のタイミングを考えるのも、重要な戦略の一部といえますね。」
ポケモンが使う技の特徴、進化の仕組み。知識自体もさることながら、それを強くなるための手段として利用できるイリマの考え方に、ハウはすっかり圧倒されてうなだれた。
「おれ、何も知らなかった。」
グラスの中の氷が溶けて、からんとやたら大きな音が響く。
「大丈夫です。知らないことは恥じゃない。誰だって最初は何も知らないんですから。これから知っていけばいいんです。」
イリマが優しく言った。
ハウは顔を上げ、うなずいた。
それからハウとイリマの修業が始まった。
ハウはイリマのアドバイスを中心に、ポケモンたちが使う技を一から見直した。それはどんな効果がある技なのか、威力や命中率はどれくらいか、どのタイプのポケモンに有利なのか。イリマの書棚から資料を借りて、理解を深めれば深めるほど、今までいかに漫然と技を選んでいたかを思い知った。
「手持ちポケモン全体の中で、その技がどんな意味を持つのかも考えましょう。例えば苦手な岩タイプを前にしてブースターを交代させる時、誰のどの技で応じますか?」
打ちひしがれる暇もなく、イリマはさらに一歩進んだ視点をハウに示した。ハウは必死で食らいついた。
本ばかり眺めているわけにもいかなかった。技を理解し、覚えさせる四つを決めたら、実戦でそれがどう出るかを確かめなければならない。幸い、イリマが多くの技マシンを使わせてくれた上に、バトルの相手も申し出た。ハウは遠慮なくイリマの胸を借りることにした。
「ライチュウ、かわら割り!」
ライチュウの鋭い体当たりが、イリマのデカグースを縦方向に打ち抜いた。いつもと違う体の動かし方に、ライチュウからも戸惑いと興奮がにじみ出ている。
だが残念ながら新しいその技は、デカグースを一撃で倒すには至らなかった。「かみ砕く」の反撃を受けて、ライチュウはあえなく戦闘不能になる。
「うーん、効果は抜群だと思ったのになー。」
ライチュウをボールに戻しながら、ハウは口をへの字に結んだ。イリマは「いえ、悪くない選択だと思いますよ」とフォローする。
「ちなみに、なぜかわら割りを選んだのか聞かせてもらってもいいですか?」
「うんー。おれのライチュウ、悪タイプに弱いでしょ。だからー、先手必勝で格闘タイプの技を出せたらいいなって。あと、ライチュウは特殊攻撃が得意だって相手も知ってるだろうから、その不意をつこうとも思ったー。けど反撃されちゃうんじゃ意味ないなー。」
うーんと腕組みをして考え始めたハウを、イリマはやや驚きの目で見つめていた。タイプ相性を補完する技、ポケモンの特徴と、相手の思考。ポケモンバトルにおいて重要な考え方を、ハウはこの短期間でスポンジのように吸収していた。それらの知識をどのように使えばいいのかも、おそらく半分は直感的に理解している。幼い頃から上級者のバトルを間近で見る機会のあった、しまキングの孫ならではの環境のおかげだろうか、あるいはハウ自身の天性の才能か。
いずれにせよこの子は強くなる。それこそ、島巡りチャンピオンにだってなれるぐらいに。
イリマはぞくりとして、微笑んだ。
ハウがイリマの元に通い、指導を仰ぎ始めて数日が経った頃だった。
たくさんの書や資料から技と戦術について学び、イリマを相手にした実戦でいくつもの経験を積んだハウの戦い方は、だいぶ煮詰まっていた。ポケモンたちもずいぶん強く成長した。
けれどもその日、ハウはイリマの部屋のローテーブルの上で分厚い本を一冊開き、もうかなりの時間しかめっ面でページをくっていた。本の隣に置いたノートに時々ペンを走らせては、また納得のいかない様子でうーんとうなる。
「少し休憩しては?」
イリマがテーブルの上にバスケットを置いて提案した。バスケットの中には、薄く焼いたクッキーのような丸い菓子が山盛り入っていて、バターの良い香りがふわりと空気に溶けた。
「ミアレガレットです。ボクこれ好きなんですよ。」
言ってイリマはひょいと菓子をつまみ上げて口に運ぶ。さくさく小気味よい音とイリマの笑顔に誘われて、ハウもようやくほおの強張りを解いた。いただきます、とガレットを食べると、軽快な歯触りの甘く濃厚な味わいが、思いのほかじわりと体に染みこんでいくのが分かった。空腹も忘れるぐらい没頭していたらしい。すぐに二つ目に手を出したハウに、イリマはにこにことバスケットを差し出した。
「それ、昨日からずっと読んでいますね。技辞典、ですか。」
「そう。おれねー、アシレーヌたちの技、まあまあいい感じに組めたと思う。だけど、まだだめなんだ。あと少しだけ足りないところがあって、でもどうやって技を組めばいいのか思いつけなくって……。」
いくつもの技の名前とポケモンのタイプを書きだしたノートは、丸やらバツやら矢印やらが重なり合って真っ黒になり、汗でしっとりとしわが寄っていた。ちょっと失礼、とイリマはそのノートを手に取って、少し黙る。
イリマがノートを返したのは、ハウが四個目のミアレガレットを食べようかそれとも遠慮しておこうか考えていた時だった。
「ハウさん。もし、ハウさんに異存がなければなのですが。」
そう言ってイリマはハウに背を向けて、なにやら机の中をごそごそと探した。振り返ったイリマが手にしていたのは、一個のモンスターボール。
「この子を、受け取っていただけませんか。」
驚くハウの目の前で、イリマはボールを開けた。光に包まれ現れたのは、ネッコアラだった。
「わーっ、可愛い!」
見慣れないポケモンに、ハウは思わず興奮の声を上げる。ネッコアラの口元が、むにゃむにゃと恥ずかしそうにゆるんだ。
「あっ、照れてるのかなー?」
「どうでしょうね。いつも眠っているポケモンですから、夢を見ているだけだとも、実は周りの状況を寝ながらにして把握しているのではないかとも言われています。」
ハウはしげしげとネッコアラを眺めた。それから顔を上げて、
「イリマさん、この子を受け取ってほしい、って……。」
戸惑いと嬉しさのないまぜになった声で言った。イリマはうなずく。
「言葉通りの意味です。このネッコアラを、ハウさんのポケモンにしてもらえないでしょうか。」
ハウはまだ少し困ったように、ネッコアラを見た。そっと手を伸ばし頭をなでてやると、寝言のような鳴き声をこぼしながら気持ち良さそうに反応する。つやつやとなめらかな毛並みの、きれいなポケモンだった。このネッコアラがイリマにどう扱われてきたか分からないほど、ハウはポケモントレーナーとして未熟ではなかった。
迷うハウに、イリマはハウさん、と呼びかける。
「キミの悩みに、この子なら答えられるとボクは思っています。今のキミのポケモンたちでは特定のタイプに対して決定打を持てない……それで苦しんでいますね? ならば決定打を持つポケモンを、新たな仲間にすればいいのです。」
ハウはハッとした。手持ちポケモンを増やす。そんな簡単なことをどうして思いつかなかったのだろう。悩みの内容を見抜かれたのもさることながら、凝り固まった自分の視点をいとも簡単にほぐすイリマの導きに、ハウは改めて感嘆した。
「でも、本当にいいのー? このネッコアラ、イリマさんの大事なポケモンなんでしょー?」
「大事だからこそ、ハウさんに託したいのですよ。」
イリマはかがみこんで、ネッコアラの頭に手を置いた。
「ボクはノーマルタイプのポケモンが好きです。彼らはとても器用で、思いもよらないタイプの技を覚えるんです。もちろんネッコアラも例外ではありません。彼らによって生み出される戦術を、ボクはもっともっと試したい。ここメレメレ島でキャプテンをしながら、あるいは先輩としてトレーナーズスクールの後輩たちを教えながらね。けれども……」
イリマは小さくため息をついて、ネッコアラをなでる。優しい手つきの下ですやすやと眠るネッコアラは、まるで親にあやされて安心しきった子どものようだった。
「このネッコアラはどうやらそれを望んでいないようなのです。一つ所に留まるよりも、いろんな場所に行きたいらしい。ボクもできる限り彼女の希望に応えられるよう努力はしてきたつもりなのですが……。」
ハウさん、とイリマは再びハウの目を見据えた。
「キミならネッコアラの可能性を最大限に活かしながら、彼女にたくさんの景色を見せてくれるでしょう。これはハウさんへの協力というよりもむしろ、ボクたちの勝手なお願いなのです。どうかこのモンスターボールを、受け取ってもらえないでしょうか。」
ハウはネッコアラを見た。うつらうつらとゆっくり揺れるネッコアラは、眠っているのにどこか緊張したような雰囲気で、問いかけるようにハウの方に体を寄せた気がした。
ハウはイリマに向き直ると、うなずいた。
「おれー、ネッコアラのこと、大事にするよ。」
そしてモンスターボールを受け取った。両手で包みこんでその重さを確認した後、ハウはネッコアラと目の高さを合わせる。
「アローラ! おれねー、ハウ! 今日からよろしくねー。」
ネッコアラが鳴いた。もしそれが夢の中でつぶやいただけの声だとすれば、今ネッコアラが見ているのはきっとこの状況と全く同じ夢に違いない。イリマへの感謝と告別と同時に、ハウへの挨拶と期待がこもったその響きは、とても偶然に出るものではなかった。
イリマがほっとしたような、少し寂しそうな顔で、微笑んでいた。
その日の夜。ハウは自宅のベッドの上で、ネッコアラをゆっくりとなでていた。初めて連れるポケモンなので、観察するほど発見があるのが面白い。例えば触ると特に気持ち良さそうにするのは、ほおの白い綿毛。少し嫌そうにするのが足の先っぽ。ずっとしがみついているまくら木からはちょっとやそっとでは離れず、まくら木を持ち上げればくっついたネッコアラを一緒に宙に浮かせることができた。
そうしてハウがネッコアラに触れて遊んでいる間も、ネッコアラはずーっと目を閉じたままだった。話しかけると返事のような声をあげたり、口元に運ばれたポケマメをもぐもぐと食べたりする様子は、実は起きているのではないかと疑いたくなるほどだ。しかし今はその反応もずいぶん鈍くなって、本当に眠っているようだった。いつも眠っているといっても、その深さには波があるのかもしれない。
「今日はいーっぱいバトルしたもんねー。ありがとー。お疲れ様、ネッコアラ。」
ゆっくりとほおの綿毛をなでてやると、くすぐったがって笑うような寝息が、ぷぅとネッコアラの鼻からこぼれた。
イリマからネッコアラを譲り受けた後、ハウはすぐにイリマの本棚からポケモン図鑑を選び出して、技辞典の横に並べた。ネッコアラのページを開いて生態や習性についてざっと目を通し、覚える技を調べ始めたところでハウは驚く。ネッコアラはとても多彩な技を使いこなせるポケモンだった。ノートを真っ黒にしても答えが出ないほど悩んでいたのがうそのように、試したい技の組み合わせがどんどん浮かんできた。技マシンを使い、イリマにバトルの相手をお願いして、また別の技を試す。気がつけば検討済みの技マシンが山と積まれていて、太陽もとっくに沈み、夜空に星がまたたいていた。さすがのイリマも疲れた表情をしていて、申し訳なく思ったものだ。
しかしおかげでバトルのイメージはだいたい固まった。こんなにほっとした気持ちでポケモンをなでるのは、なんだか久しぶりのような気がする。
おれはやっぱり、ポケモンが大好きだな。ネッコアラの安らかな寝顔は、ハウのその気持ちをふつふつと揺り起こした。最近はバトルのことばかり考えていて、そんな当たり前のことを置き去りにするところだった。
(もしかしてイリマさん、そこまで見越しておれにネッコアラをくれたのかなー。)
それはさすがに考えすぎかーと、ふふっと微笑んでハウもベッドに寝転がった。
ああ、おれ、ポケモンと一緒にどこまでも行きたい。どこまでも行きたいんだ。
クチナシに負けた時に沈んでしまった闘志が、今またハウの胸の奥でちりちりと光を放ち始めた。
明日、クチナシさんの大試練を受けるため、ウラウラ島に出発しよう。
目を閉じて深呼吸し、ハウはそう決めた。
ポータウンの近くにぽつんとたたずむ交番の扉を開けると、何匹ものニャースたちがにゃあにゃあ騒がしい声を上げながら、部屋の真ん中に群がっていた。どうやら食事の時間のようだ。群れの中央でポケモンフーズの箱を手にしているのは、黒い警官服に身を包んだ中年男。しまキングのクチナシだった。
「クチナシさん。リリィタウンのハウです。もう一度おれと大試練のバトルをしてください。」
フーズにがっついたり隣と小競り合いをしたりするニャースたちのもごもごとした騒ぎの中、ハウの声はりんと響いた。
クチナシは少しハウを見やった後、おもむろにフーズの箱を棚にしまいながら、はあーと静かにため息をついた。
「こういう時だけは、しまキングを引き受けたこと後悔しちまうなあ。」
ハウはクチナシから視線をそらさぬまま、ぎゅっと口を結んでキングの返答を待った。その真顔は、ニャースのささいな喧嘩がもぐもぐと続く部屋にあまりにもそぐわなかったのだろう。クチナシは気の抜けた様子で、分かった、分かってるよと笑った。
「島巡りトレーナーの真剣な気持ちを踏みにじる趣味は持ってないもんでね。諦めないあんちゃんの覚悟、見せてもらおうじゃないの。」
場所はもうそこでいいだろ? とクチナシは交番前の道路をあご先でくいと示す。ハウはうなずき、クチナシに続いて外に出た。
「何体でもいいぜ。」
ポケモンが対面するための場所を十分に空けて、ハウと向かい合ったクチナシは言った。バトルするポケモンの数のことだった。
「おれは三体でいくからよ。」
手の内を明かすとはずいぶんな余裕だった。だがハウはそれを侮辱とは捉えない。むしろ、そのハンデを与えるだけのバトルをするつもりだという宣言だと受け取り、ぴりりと身の引き締まる思いだった。交番でニャースたちに接していた時のくたびれた警察官の眼差しは、いつのまにか威厳あるしまキングのものに変わっていた。
よろしくお願いします、と一礼して、ハウはモンスターボールを手に取った。
「頼んだよ、ブースター!」
光の中からブースターが姿を現し、威勢よく吠えた。
クチナシがボールを投げたのはそれからワンテンポ遅れてのことで、しかし光は飛びだした瞬間、もうブースターの目前に迫っていた。
ヤミラミ、とハウが判断したのと、ヤミラミの両手がぱあん! とブースターを一打ちしたのはほぼ同時だった。ブースターは突然の攻撃に面食らって目をぱちくりさせ動けずにいる。
「ねこだまし、おじさん得意なんだよ。」
にやっとクチナシの唇が描いた弧は、ヤミラミのタイプをまるで体現していた。
クチナシがいつ指示を出したのか分からなかった。バトルに熟練したしまキングのなせる技か、あるいはポケモンとの揺るぎない絆のおかげなのか。
だがポケモンとの絆ならハウにだって自信があった。イリマさんと一緒に、あんなにたくさん修行したじゃないか。おれがひるんでどうする、とハウは一つ息を吸い、自らを落ち着かせた。
「ブースター! フレアドライブ!」
ハウの号令にブースターも我に返ったようだった。自らを落ち着かせるように息を吸うと、吐き出した炎をまとってヤミラミに突進した。強烈な激突に、ヤミラミはなすすべなく沈む。
「へえ……やるな。」
ヤミラミをボールに戻しながらクチナシがつぶやき、次に繰り出したのはワルビアルだった。
地面タイプのポケモン。ブースターにとって不利な相手だ。その上ワルビアルはバトル場に登場するやいなや、そのおたけび、顔つき、体格のすべてを使って対面者を威圧する。ブースターは、じりとわずかに後退した。
「大丈夫だよ、ブースター。必ずおれたちが勝つ。つぶらな瞳でワルビアルを見つめて。」
ブースターの後退が止まった。ハウに背中を預け、ブースターはじっとワルビアルを見つめた。にらみ返しとも異なるブースターの黒い瞳に戸惑ったのか、今度はワルビアルがじりとわずかに後退した。それでクチナシは、ハウが何を仕掛けたのか理解した。
「ブースターの目を見るな、ワルビアル。地震!」
大きな咆哮と共にワルビアルが大地を踏み揺るがした。激しい衝撃と砂煙に飲まれ、ブースターが倒れる。ハウがボールをかざす動作は早かった。今のブースターではどうあってもこの攻撃に耐えられないことは分かっていた。
「ありがとう、ブースター。ごめんね……。でも、きみの力は無駄にはしない! アシレーヌ!」
この強敵に立ち向かうためハウが選んだのは、手持ちポケモンたちの中で最も長く時間を共にしたパートナーだった。タイプ相性も申し分なし。絶対に負けないという強い決意が、掲げたZリングを輝かせた。アシレーヌも承知し、自らの中に膨らむ力を、ハウの呼吸に合わせて技の形に練りあげる。
「登場即Z技か。なかなか攻める選択だねえ。オーラごと飲みこめワルビアル!」
再びワルビアルの放つ大地の強い揺れがアシレーヌを襲った。繰り返される振動にとうとう地面のほうが先に悲鳴を上げてぱっくりと裂け、その衝撃で飛び散った岩塊が運悪くアシレーヌの急所に当たった。
だがアシレーヌは崩れなかった。ブースターが残した真っ黒な瞳の残像がワルビアルの攻撃を鈍らせてくれたおかげで、ぎりぎりのところで耐えきった。
直後、ハウとアシレーヌの思いを乗せた輝きが技として具現する。
「スーパーアクアトルネード!」
どこからともなく現れた大量の水が津波となり、ワルビアルに襲いかかった。もはや激流そのものと化したアシレーヌが弾丸となって突進し、らせんの軌跡で何度も攻撃を放つ。渦の中心に捕らわれたワルビアルに対抗手段はなく、すべての水が引いた時には一指も動くことなく倒れ伏していた。
「やっ、た。」
Z技はポケモンだけでなくトレーナーにも大きな負荷をかける。地震によって大ダメージを受けたアシレーヌと同じく、ハウもずしりとのしかかる疲労感にあえぎながら、ワルビアルの体が光となってクチナシのモンスターボールに収納されるのをなんとか見届けた。
「まだ終わってねえよ、あんちゃん。」
休憩する間も与えず、クチナシが最小限の動作でボールを投げる。飛びだした光は形になる前に一気にアシレーヌの目前に迫り、
(ペルシアンのねこだまし!)
ハウがそう判断できたところでどうにもならなかった。ワルビアルの地震で相当の体力を失っていたアシレーヌは、素早く不意を突くことだけに特化したその攻撃にすら、耐えることができなかった。
「悪いね。得意技を一回しか見せてやらねえほど、おじさん甘くねえんだ。」
倒れたアシレーヌに、ハウは黙ってボールをかざす。アシレーヌが手元に戻ってきた時だけ、少し口を開いてその健闘を労った。
それからハウは、次の獲物の出現をじっとり待ちかまえているペルシアンの前に、ライチュウを繰り出した。
「相性、悪ぃぜ?」
クチナシが問うたが、もちろんハウに待ったをかけるつもりはない。それを分かっていてわざと尋ねたのであろうクチナシの顔は、一度目の挑戦の時よりもずっと楽しそうに、ハウが出す次の手を観察しているようだった。一方的な敗北試合では見ることのなかったしまキングの、いやポケモントレーナークチナシの表情を見て、ハウの胸に熱い思いがこみあげた。
おれ、強くなってる。おれは間違ってなかったんだ。あとは勝利という形でそれを証明するだけ。
くつくつと震える感情をまだ気早だと抑えつけ、ハウは対戦相手をきっと見据えた。
「ライチュウ、気合い玉!」
「悪の波動で迎え撃て!」
ライチュウが放つ闘魂の玉。ペルシアンが放つ悪意の波。二つのエネルギーが真っ直ぐ相手に狙いを定め、ちょうどバトル場の中央でぶつかった。すさまじい爆風がポケモンの後ろに控えるトレーナーにまで襲いかかり、ハウは撒きあがる砂ぼこりを防ぐため腕で目を覆った。直後、ハウの左方でどさりと生身が地面にたたきつけられる音がする。
「ライチュウ!」
あまりの衝撃にライチュウが吹き飛ばされてしっぽから落ちてしまっていた。が、バランスを崩しただけで、まだ戦うことはできそうだ。ひとまずほっとして、改めてペルシアンの動きを見定めようとしたハウの目に飛びこんできたのは、収まりつつある煙幕の向こうですでに攻撃態勢に入ったペルシアンの、燃えるような赤い口だった。
「く、来るよー! 十万ボルト!」
「遅い。第二波だ。」
ライチュウがやっとしっぽの上に立った時、ほお袋が電気をまとう暇もなく、黒々とした悪の波動がライチュウを飲みこんだ。再びしっぽから落ちたライチュウは、今度こそ浮かぶことができなくなっていた。
「少しの油断も、命取りになるぜ。」
厳しい口調でクチナシが諭す。油断していたつもりはなかった。それでも先走った勝利へのわずかな陶酔が、ほんの少し相手からそらしてしまった視線が、大きな失態につながった。そういう領域のバトルに、もうたどり着いているのだ。
望むところだった。
ハウはライチュウをモンスターボールに戻すと、静かに息を整えた。
「よくやったよー、ライチュウ、ありがとう。」
タイプ相性の不利を覆せなかったとはいえ、ライチュウの気合い玉はペルシアンにとって確実に大きな一撃となったはずだ。ゆらり、ゆらりと、よろめいているのか身構えているのか分からない動きで待つペルシアンと、その向こうにいるしまキングの姿をしっかりと捉えて、ハウは最後のモンスターボールを手に取った。
「ネッコアラ、出番だよー!」
登場したネッコアラは、いつものように眠ったままだった。戦うつもりがあるのかと、ペルシアンが逆に警戒心をあらわにして寝顔をのぞきこんでいる。
「おれの最後のポケモンです。」
ハウが宣言すると、クチナシは少し眉を上げた。
「いいのかい、そんなこと言っちゃって。おじさん手加減しないよ?」
「ありがとうございます。」
その返答を、クチナシは気に入ったようだった。
少しの間。雌雄を決する時が近いのを、お互い分かっていた。相手が何を感じ、考え、答えを出すのか。全神経を集中させて探るための時間だった。
先に動いたのはクチナシだった。両腕を顔の前で交差させ、大きく回して胸の前に突き出す。左手の腕輪にはめこまれた黒い石がきらりと輝いた。その光はクチナシの動きに呼応して、大地から、空気から、あふれる力をペルシアンに注ぎこむ。先の悪の波動とは比べ物にならないほどの、巨大なエネルギーのうねりが場に満ちた。それがペルシアンの体に収束し、黒々とした球を作り出した、その時。
ハウの口が、指示の言葉を短く紡いだ。
瞬間、ネッコアラの姿がペルシアンの視界の外に飛びだした。ダメージを最小限に抑えるため構えていたかと思われたネッコアラの唐突な動きを、自分のゼンリョクだけに集中していたペルシアンは捕まえることができなかった。対象を失って焦るペルシアンがあっと思った時には、ネッコアラの体がもう目前に迫り、鋭い殴打が突き刺さった。
ネッコアラの「不意打ち」だった。
発動直前まで高まっていたオーラが、ペルシアンの体勢が崩れると共に霧散する。どっと倒れたその体は、起きあがること叶わなかった。先にライチュウの気合い玉が命中していたからだった。そのためにアシレーヌが強敵ワルビアルを下し、ライチュウにつないだからだった。そしてそのためにブースターがワルビアルの攻撃に黒い瞳でかせをはめ、最初のヤミラミを捨て身の猛攻で突破したからこそのことだった。
ハウとポケモンたちが、勝った。
「お見事。」
ペルシアンの姿が光に溶けてボールに吸いこまれる。クチナシはにやりと微笑んで、まだ呆然とバトル場を見つめるハウとネッコアラが、結果を認識するのを待っていた。
「勝った……。」
ハウがぽつりとつぶやく。深いため息とともに、ゆっくりと肩が下りた。
「わーっ! 勝ったよー! ネッコアラ!」
それから勢いよくネッコアラに駆けより、地面から拾いあげるとぎゅうっと抱きしめた。
「ありがとー! よく頑張ったねー!」
バトル中の勇ましい表情はどこへやら、年相応のはしゃぎっぷりでネッコアラをなでまわし、高く掲げ、くるくると回るハウを、クチナシはやれやれと眺めてひとりごちた。
「理想に伴わせる手段を見つけちまったか……。」
それからクチナシはおもむろにハウに近づくと、そら、と何かを握った右手を差し出した。
「アクのZクリスタルだ。大試練達成、おめでとよ。」
ハウはネッコアラを腕にくっつけたままクチナシに向き直ると、謹んでクリスタルを受け取った。
「ありがとうございます、クチナシさん。」
「なに、しまキングのお仕事ってやつだ。あんちゃんたちなら、ポニの試練も大丈夫だろ。」
クチナシがにっと口の端を上げた。
「行きな。行きたいところまで。」
それは世間の酸いも甘いもかんだ中年男のニヒルでいびつな笑みだったが、奥には年少者を見守るキングの、深い優しさが隠れていた。
ハウはネッコアラの顔を見つめた後、満面の笑みと力強いうなずきでクチナシの言葉に答えた。ハウの腕にしがみついたまますやすやと眠るネッコアラが、同時に同じ表情を浮かべたのが、その何よりの裏打ちだった。